[ 舞坂 今切真景 ]
浜名湖の浅瀬で小舟を降りて貝を拾う漁師の右手に、大きな筵が三枚広がっています。
漁師の後ろには急峻な山がそびえ、右手遠方には白い富士山がくっきりと見えます。
手前には波除けのために設けらられた木杭と、新しく植えられた松の幼木が描かれています。
[ 舞坂 新居側から望む(2022 02 12) ]
浜名湖は海とつながっていなかったのですが、1498年の地震で浜名湖と太平洋の境であった砂洲が崩れ、湖と海がつながりました。
この場所が今切と言われ、 現在は国道1号の浜名大橋が上空を結んでいます。
今切の渡しは、東側は舞坂宿、西側は新居宿が渡船場でした。
舞坂宿側は平坦な土地が広がっているので[舞坂 今切真景]にあるような山は見られません。
広重の絵にある高く険しい山は全くの創造のようです。
舞坂側の渡船場は、北雁木(船着場)に江戸時代の石積みが残されていますが、気に留めていないと駐車場と見間違えてしまいそうな施設です。
現在は漁港の一部となっていて、小型の漁船や釣り船が並んでいます。
港からは浜名大橋、いかり瀬に立つ赤鳥居、弁天島が見渡せ、糸を垂らす釣り人もいます。
[ 舞坂 北鴈木(2022 02 12) ]
舞坂宿は、現存する脇本陣以外は比較的新しい建物に建て替り、その際に駐車場を確保するため建物が後退しているので、道路からの建物までの離れはまちまちで家並みが乱れつつあります。
脇本陣の斜め前に津波避難タワーが武骨な姿で立っています。
105㎡の広さがあるので、ぎゅうぎゅう詰めにすれば300人ほどが避難できると思われますが、住民全員が避難するには狭そうです。
[ 舞坂 松並木(2022 02 12) ]
舞坂宿の東には、長さ700mの松並木が残っています。
もともとは900m以上あり土盛りの上に松並木がありましたが、戦前の国道整備の際に土盛りが崩され歩道が付けられて、現在の姿になりました。
松並木がある区間は曲がりのない直線で、車道はアスファルト舗装、歩道はブロックが敷かれ、並木のある部分はコンクリートブロックで帯状に区画されているので、新しく造られた道のように見えます。
車道は乗用車がすれ違える程度の幅で、一方通行になっている区間もあるためか、車の通行は多くはありませんでした。
きれいに整備されているのですが、旧・東海道では珍しく長い直線区間なので、少々人工的に感じられる松並木です。
[ 荒井 渡船ノ図 ]
幟を掲げた大名行列の一行を乗せた御座船を追うように、お供の侍を乗せた船を二人の船頭が船を操っています。
遠景には新居の関所と宿の家並が広がっています。
[ 荒井 新居関所(2022 02 12)]
[荒井 渡舟ノ図]では新居の関所は海に面していますが、現在の関所はJR東海道線の新居町駅から西へ700mほどの内陸にあります。
最初の関所は今切口に近いところにありましたが、1699年の暴風雨、1707年の地震により移転を繰返し1708年に現在の位置になりました。
江戸時代の関所は海に面していましたが、その後、駅を設置するために35,640㎡が埋立てられ1915年に新居町駅が開業し、さらに関所から新居町駅までの間で27,698㎡の埋立てが行われ、新居関所が内陸にあるようになったのです。
さらに、新居町駅東側の養魚池が埋立てられ20万㎡を超える陸地が造られるなど、埋立てが続けられ今日の姿になりました。
埋立てには新居宿の南にあった高さ35mの源太山の土が使われ、その跡地は平になり新居小学校や幼稚園があります。
[ 荒井 関所(2022 02 12) ]
新居関所の面番所(関所改めをする建物)は1855~1858年にかけて建てられた、現存する唯一の関所の建物です。
面番所のほか、高札場や船着き場の石垣などの復元が行われ、これからも復元事業が進められ往時の新居関所の姿に近づきつつあります。
関所の近くに明治初期の再建ではありますが、紀州藩の御用宿だった旅籠紀伊国屋があり、関所跡の共通入場券を買えば割安で見学できるようになっています。
このほか明治末期の建物を移築して芸者置屋及び小料理屋として使われ、現在は小松楼まちづくり交流館になっている建物も見学できます。
今は静かな住宅地となっているので、戦前はこの辺りが歓楽街だったとは思えません。
[ 荒井 津波浸水想定(2022 02 13) ]
新居宿の家屋は建て替わっていますが、昔からの町割りが残り細い路地が格子状に走っているので、何となく昔の雰囲気が残る家並みです。
旧・東海道は新居関所を少し西に進むと、直角に曲がり南下します。
道幅こそ昔と変わりませんが、こちらも家屋は建て替わり道沿いには駐車スペースが設けられ、一里塚跡も小さな立て札と石碑があるだけで、注意して歩いていても見過ごしてしまいそうです。
歩いていると目に付くのが、路面に埋め込まれた津波浸水想定深の表示です。
今も昔も変わらないのは、地震や津波への恐れです。
[ 白須賀 潮見阪図 ]
汐見坂から谷間の先に見える太平洋を望み、洋上には船の白い帆が浮かんでいます。
坂を下る大名行列の一行は編笠をかぶり、荷を担ぐもの、旗を持つものが長い行列をつくり整然と進んでいます。
坂を囲むように生えている両側の松は、中央の空間に焦点を合わせるような樹形で描かれています。
[ 白須賀 汐見坂(2022 02 13)]
新居宿から白須賀宿への旧・東海道は、海辺を避けるように山裾に近い位置を通っています。津波や台風の大波を避けるためなのでしょうか。
国道1号潮見バイパスの高架と海が近くなったところでほぼ直角に右へ曲がると、70m以上の高低差を上る潮見坂になります。
松の並木はありませんが、現在でも山に挟まれた潮見坂から太平洋を望むことができます。
もともとの白須賀宿は潮見坂下の海沿いにありましたが、1707年の津波により宿場が全滅する被害を受け翌年に潮見坂から1kmほど内陸側の段丘上に移転しました。
津波による移転前の海沿いの村々は半農半漁の暮らしだったそうです。
[ 白須賀 津波避難情報(2021 12 13)]
移転前の白須賀宿があったところに津波避難情報板が立っていました。
情報版の地図によると、海沿いの平地は津波による浸水エリアに含まれ、山側には急傾斜地崩壊危険箇所が広がっています。
大地震の際は、津波と土砂崩れが同時に発生する恐れがあるので、ただ単に高いところへ逃げればいいという訳にはいきません。
この地図を見ると、白須賀宿は安全なところに移転したことがわかります。
移転後の白須賀宿は約1.5kmの長さがありますが、道幅は狭いところは4m程度の道幅しかなく、車のすれ違いが厳しいところです。
この狭い道路に面して境界ギリギリに家屋が連続して建ち並び、昔の街道の雰囲気が感じられます。
[ 二川 猿ケ馬場 ]
後方のなだらかな丘陵に点々と描かれているのは姫小松といわれる松で、中央手前では三人の女性が助け合いつつ茶屋に向かっています。
三人は盲目の一行で、諸国をめぐり楽器を奏でて生計を立てていると言われています。
左手にある茶屋は、「名物かしわ餅」と書かれた看板があり、当地の名物を旅人に出していたそうです。
[ 二川 愛知県と静岡県の境(2022 02 13) ]
猿ヶ馬場は静岡県と愛知県の境を流れる境川付近の丘陵地と言われていますが、現在は柏餅を売っているお店はありません。
愛知県側も静岡県側と同様に畑が広がり、キャベツ畑が大勢を占めています。
この地でキャベツ栽培が盛んになったのは、1968年の豊川用水が完成した後です。
それ以前は水不足に強いサツマイモや麦を作っていましたが、豊川用水の完成によりキャベツのほかスイカやトマトも作られるようになりました。
豊川用水は、太平洋戦争後間もない1949年に豊川上流の宇連ダム工事を皮切りに、大島ダムを設け、西部幹線水路36km、東部幹線水路76kmの東西幹線を築造して、東三河地方に年1億8200万㎥の農業用水を配水しています。
このほかに、豊橋市・豊川市・蒲郡市・新城市・田原市への水道用水、三河湾臨海工業地帯への工業用水を含め年2億6000万㎥の給水をしています。
国道1号になった旧・東海道から豊川用水の施設がちらりと見えます。
[ 二川 国道1号沿いのキャベツ畑(2022 02 13) ]
豊川用水の整備により愛知県のキャベツ収穫量は、群馬県とほぼ肩を並べ第1、2位の座を占めています。(令和2年産野菜生産出荷統計 愛知県262,300t、群馬県256,500t、千葉県119,500t)
農業が盛んなように見えますが、幹線道路に近いところでは工場や廃棄物処分施設などが目に付き、農地と宅地の混在が始まりつつあります。
このままでは農地としての環境が悪くなるほか、用水受益農地の減少によって、ダムや堰、水路などの施設を維持管理することが困難になってしまいます。
[ 二川 現存する本陣(2022 02 13)]
国道1号となった旧・東海道を進み、巨大な工場の前で新幹線のガードをくぐりしばらく行くと二川宿に入ります。
二川宿は古い家並みが残っていますり、
本陣の建物は、1985年までは酒造業や味噌・醤油の醸造業を営んでいましたが、市に寄贈され江戸時代末期の姿に改修工事が行われ、隣の旅籠とあわせて公開されています
本陣で出されていた当時の食膳や建物の間取り図などが展示されていて楽しめます。
豊川用水により二川宿周辺の農業は大きく変わりましたが、二川宿は旧・東海道が拡幅されなかったため江戸時代の街道の雰囲気を大いに残しています。
[ 吉田 豊川橋 ]
画面の右手では足場を組み、大きな鯱鉾をのせた豊川城の壁や屋根を職人が修理しています。
左手に描かれた豊川橋は多くの橋脚が描かれ長さを強調し、橋の上は多くの人が行き来しています。
川幅の広い豊川は、荷を積んだ船が浮かんでいます。
[ 吉田 吉田城鉄櫓から(2022 04 15) ]
豊橋は城下町でもあり、吉田城の鉄櫓(くろがね やぐら)が復興されて内部は博物館なっています。
鉄櫓の最上階から北側を流れる豊川が見えますが、豊橋(昔の豊川橋)は見えず手前の吉田大橋が写真に写りこんでしまいます。
豊川は蛇行が激しく吉田城付近で北から南への流れが180度反転します。
古い豊橋市街は高台にあるので水害はありませんが、豊川には霞堤があり洪水になると農地が浸水するため豊川放水路が造られました。
普段はすべての水が豊川を流れているので、今でも[吉田 豊川橋]と同じ量の水が流れています。
[ 吉田 豊橋市内の路面電車(2022 04 15)]
豊橋の市街地は戦災復興土地区画整理事業などにより、大きく姿を変えました。
幅50mの駅前通りをはじめ、広幅員の街路が東西方向、南北方向に整備され、その上を路面電車が悠々と走っています。
1両で走る車両のほか3両編成で走る最新型もあります。料金は均一、7~8分間隔で走っているので、観光者にとっても便利な交通手段です。
道路は広いのですが、交差点では軌道上に車が入り込み苦労して走る路面電車も見かけました。
[ 吉田 牟呂用水の上に立つビル(2022 04 15) ]
豊橋市街には、1931年に建築された半球ドームと鷲が目立つ豊橋市公会堂のような重厚な建物のほか、牟呂用水の上に建っているアパート群があります。
このアパート群は、15棟が横一列に連続しているので巨大な壁のような存在で、地図で見ても目を引く形状です。
建物自体は老朽化が進んでいるようですが、1階部分には飲食店、物販店のほかに、昭和レトロが漂う造りに引き寄せられた若い人が開く店もあります。
用水路の上にアパートができたのは、戦後復興のゴタゴタを解決るするための苦肉の策したが、権利関係がゴタゴタしているので建て直すのは容易ではないようです。
アパートとアパートの間には用水路に架かる橋が残り、水面が見えないのに高欄だけが存在する不思議な光景を醸し出しています。
豊橋は意外と面白い街です。
<参考資料>